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三増峠の合戦 北条氏康 対 武田信玄
戦国至上最大の山岳戦
年号:永禄12年(1569) 武田勢:2万 対 北条勢:2万10月6日小田原攻撃を断念し、甲府への撤退をはじめた武田勢は平塚から相模川を北上し三増峠を越えて甲斐の国へ戻りはじめた。しかし武田勢の進む先には北条氏照を責任者とする 津久井城があり、武田勢は早くこれを突破しなければ後方から北条氏康が駆けつける可能性があり挟み撃ちになるピンチとなった。 武田勢のこの動きを素早く察知した氏康は嫡子氏政ともども数万の軍勢を従え小田原は発した。それに先立ち北条方津久井城からは氏照、氏邦らが武田勢を迎え撃つため 三増峠に布陣。綱成は三増峠に平行する志田峠を押さえた。
合戦前日武田勢は3部隊に分かれる
翌7日、武田勢は内藤昌豊率いる小荷駄隊を後方に避難させ馬場信春・武田勝頼らが三増峠を北上、信玄本体は三増峠より小高い扨又山に布陣した。 山県昌景は三増峠西方にある志田峠を北上した。
後方・側面からの奇襲を受け北条勢は敗走
翌8日、志田峠から迂回し後方から山県勢が北条勢を奇襲。北条方前方には馬場信春を大将とする精鋭部隊から攻撃を受け次第に押され敗走に移った。 さらに山県勢からは小幡信貞1400が津久井城の押さえとしてそのまま北上した。北条勢は北条氏康本隊が到着するまではどうしても武田勢を 三増峠に押さえておく必要があり、高所に退避していた武田の小荷駄隊への攻撃を開始した。 しかし、前方の馬場・勝頼勢、後方からは山県勢が駆けつけ北条勢は総崩れとなり3200もの戦死者を出してしまった。
上記は甲陽軍艦の記述を元に作成しています。武田勢の迂回路についてはそもそも三増峠では無いという説もあり、また近年では 武田勢の勝利というより五分五分の戦、双方深い傷を負う戦であったとの説もあります。
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